パチンコ狂いで金遣いの荒い家事もしない家にいないわがまま母。それでも捨てられないものは・・・
物や服なら捨てられる。
人にとって厄介なのは捨てられない記憶です。
私の母は現在介護施設にいます。
冷たい子なのかもしれません。
忙しいのもあり、ここ5、6年は病院にすら行ってません。
小さい頃の記憶
小学校から帰って来ても毎日、一人で留守番していました。
母は専業主婦でしたが、家にはいつも居ませんでした。
パチンコです。
何度もパチンコを恨んだことがありました。
パチンコ店が潰れたらいい!
そんな事を考えていた日々でした。
一人の留守番は怖かったのを覚えています。
中学生の頃の記憶
相変わらず母はパチンコ狂いです。
そして、父までも仕事終わりに行きます。
帰っても夕飯など無い。
いつもうどん屋かラーメン屋。
しかも両親がそこで食べている時間帯を逃すと抜きになることも多々ありました。
ある日どうしてもお腹が減ったのでカップラーメンを食べたら凄く怒られた記憶があります。
暴力こそなかったもののネグレクト状態でした。
しかも、中学生にもなったら自分で作れ!でした。
お金も材料もない。
どうやって作るのでした。
いつしか夕飯を食べなくてもお腹が減ったら寝る事を覚えました。
高校生の頃の記憶
高校生になってアルバイトをするようになりました。
金銭に余裕がでた私は夕飯に何らかの食べ物食べられるようになりました。
しかし、バイト帰り21時以降になると帰って来るな!でした。
何度かバイト先に泊まりました。
社会人になって
自分が働くようになった頃は母親に干渉されないことが心地良い時もありました。
好き放題やってたと思います。
しかし、やっぱり人恋しい時もありましたが、家に帰っても誰もいない。
早く結婚がしたい!
そんな風に思うようになり20歳でお見合い結婚します。
その時言われたのが2度と帰って来るな!でした。
3人の子供を儲けますが離婚します。
渋々実家に帰ると針の筵。
おまけに元夫はストーカー。
このお話しは「記憶に残っている、あの日」に書いています。
ストーカーから逃げるため子供達と離れ離れになります。
このお話しもまた、「記憶に残っている、あの日」に書いています。
それから
自分の夢であった居酒屋をオープンさせます。
このお話しも「記憶に残っている、あの日」に書いています。
暫くして、父の癌がわかり余命宣告されました。
歩けるうちにと、旅行に行きました。
最後に集合写真を撮ったのですが、一脚しかないない椅子に座ろうとした父に母は「立っとけよ」と言いました。
母は若干足が不自由ですが撮影位なら立ってられます。
癌末期の父に放った言葉が忘れられません。
その後直ぐに他界しました。
残ったのは母です。
元々わがままな母です。
更にわがままになります。
店をやっている私にあっちこっちに連れていけこずかいがない。
金遣いの荒いのは父が生きている時から1万円を1日で使うのもしばしば。
遣い過ぎを注意しても聞く耳持たず。
そうこうしていると転んで足の骨を折り入院。
たまたま併設に介護施設がありお世話になることに。
その頃娘は結婚したてで住む家を探していました。
娘は母の洗濯や病院からの連絡などの対応を条件に母の一戸建てに住むようになります。
しかし、病院から頻繫に電話がかかってきます。
母がこずかいがないと言っている。
あれが欲しい。これが欲しい。でした。
勿論、介護施設の入院費が毎月15万円程度いります。
そんな余裕などありませんが母にしてみると私がお金を取り込んでいると言うのです。
母に言っても無駄なので病院に金銭事情を説明。
今後、そんな電話をしないようにして貰いました。
それから、私は母に合っていません。
病院にはたまに行きますが、母には会いません。
冷たい子なのかしれませんが嫌いまではいきませんが、血の繋がりがあると言うだけの人です。
私の記憶には、御飯を作ってくれないパチンコ狂いのわがままな人です。
しかし、どこかで母を慕っているのかそんな記憶を捨てることができません。
思い出すのは、カップラーメンを食べて𠮟られた事や、パチンコに行っている間の留守番が怖かった事。
帰って来るな!と言われた事。
離婚した実家の戻った時の針の筵。
いい思い出などありません。
きっとこの先もそんな思い出を捨てられずに生きて行くのかもしれません
が、現在、とても幸せな生活を送っています。